「真珠の響き」を求めて 最終回

――演奏に国籍はあるのか?――

上田泰史
日本学術振興会特別研究員 (SPD)

今回で、この連載は最終回を迎えます。最終回のテーマは「演奏に国籍はあるのか」?
「流派」というキーワードから、このデリケートな問題を辿っていきましょう。

演奏と「流派」

 たとえば尺八など日本の伝統音楽では、演奏様式によって都山流、琴古流といった流派がありますね。これは英語では「スクールschool」、フランス語では「エコールécole」と言う言葉で表される、共通の様式を共有する(と見做されている)集団のことです。19世紀には、ヨーロッパにおけるピアノ音楽でも、この様々な次元で「流派」という言葉が使われていました。たとえば、シャルル=ヴァランタン・アルカンやセザール・フランクを育てたパリ音楽院のヅィメルマン先生門下であれば、ヅィメルマンの流派、F. リストやTh. レシェティツキを育てたチェルニー先生の門下であればチェルニーの流派。これは日本語では「一門」とか「門下」という言葉に近い用法です。さらに大きな括りになると、ドイツの流派、フランスの流派といった地域名と結び付く流派が出てきます。なぜ流派という括りが頻繁に用いられたのでしょうか。それは、演奏録音技術が確立されておらず普及もしていない時代、演奏様式は地域的な差異が大きかったため、人と土地を結びつけながら、演奏様式に共通の特徴を探し出し、演奏様式を整理する必要があったからでしょう(⇒第1回連載参照)。現代のモダン・ピアノ演奏では、録音された演奏が溢れており、師匠や文化的風土や自然環境に関係なく、録音された演奏そのものがモデルになることも多いので、「○○人だから○○な演奏だ」という表現はあまり説得力を持ちません。

ジョゼフ・ヅィメルマン(左、1840)とカール・チェルニー(右、1856)

ジョゼフ・ヅィメルマン(左、1840)とカール・チェルニー(右、1856)
(BnF, Gallica, public domain)
ヅィメルマンはパリ音楽院で、チェルニーはウィーンで著名な教育者となり、
傑出したピアノのヴィルトゥオーゾを輩出した。

地域別「流派」の区別

 さて、前回みた19世紀フランスの音楽雑誌で演奏を真珠に喩えた記述にも、国別の流派との関連が見て取れます。登場する国は、フランス、イタリア、ドイツの三国です。まず、「ペルレ(真珠飾りのような)」とされる演奏についての記事の中には、そのような演奏様式がイタリアの劇場歌唱様式に由来するとするものが見られます。たとえば、1864年3月に発行された『アール・ミュジカル』誌第14号には、同時代のピアニストたちに関して次のような一節があります。

こんにち、ピアノ芸術がイタリア歌唱のもっとも純粋なメソッドに由来するあの目新しい走句、あのグルペット、あのフィオリトゥーラに到達したことは、評価することができる。それらは鍵盤上で真珠のロザリオのごとく粒立ちよく並び、幾多の旋律の花火となって中空を縦横に走るのだ[…]*1。

 その一方で、演奏に対して「流派」の概念を紋切型に当てはめることを嫌う批評もいました。アルバーニの歌唱について、『メネストレル』誌に掲載されたアメリカの批評家の文章には、一人の音楽家の中に、フランスとイタリアの二つの流派を認めています。

あの声は水晶の囁きのごとく清純で、音符は、黄金に輝く連なりが緩められた真珠の首飾りのように一粒一粒並んでいる。最初はこの甘美な若き女性の威光に包まれ、次いで耳を傾けるにつれて、いったいどれほどの才能が生来の素質に加わっているかに気付く。あの優雅なフレーズ、正確なリズム感、ビロードのようになめらかな半音階、非常にするどいスタッカートのしっかりとした明瞭さ、確かな抑揚。これらすべては、流派やシステムを感じさせない。これはイタリア楽派だの、フランス楽派だのとは言えないのだ。むしろ、それぞれの流派の最良の部分の組み合わせなのだ。つまり、一方には歌唱のよき諸原理があり、他方には合理的で劇的なよきメソッドがあるのだ*2。

*1 Léon Escudier, « Mes souvenirs. Les virtuoses. Frédéric Chopin », L’Art musical, 4e année, no 14, 3 mars 1864, p. 107.
*2 Anonyme, « Nouvelles diverses[.] Étranger », Le Ménestrel, 40e année, no 51, 22 novembre 1874, p. 406.

しかし、この批評を良く読むと、流派を感じさせないという判断が、イタリア派とフランス派のきっちりとした区別の上に成り立っていることがわかります。イタリア楽派は歌唱原理に美点があり、フランス楽派にはメソッドの合理性と劇的性質に美点があると言っています。これは伝統的なイタリア派とフランス派の区別で、1750年代初頭にフランスで展開されたブフォン論争に遡ります。これは、オペラの音楽性を優位とするか、文学性を優位とするかという知識人の間で巻き起こった論争で、イタリア・オペラ支持者(王妃派)とフランス・オペラ支持者(国王派)が論戦を繰り広げました。
 しかしピアノ演奏について、それ自体がイタリア的なピアノ演奏だとする例は見受けられません。ピアノ演奏はイタリアの劇場歌唱様式を模範としてはいますが、ピアノ演奏の流派として語られる場合には、もっぱらフランス的(社交的・装飾的)かドイツ的(真面目・深刻)かのいずれかでした(⇒第1回連載参照)。

ピアノのフランス楽派

 では典型的に「フランス的」な演奏というイメージは、19世紀の音楽雑誌上ではいつ頃から現れたのでしょうか。第1回の連載記事で見たように、すでに1840年代にマリー・プレイエルの演奏について「フランス的」な要素として「細やかで微妙な細部、真珠で飾られたような諧謔味」が認められていました。時代が進むにつれ、このような「フランスらしさ」は、パリ国立音楽院で教育を受けたピアニストたちに対して、真珠の比喩とともに語られるようになります。1839年生まれのフランシス・プランテは、作曲家を兼ねない最初の男性ピアニストとして知られています。95年の生涯を全うしたこともあり、彼の晩年の演奏は映像や録音を通して聴くことができます。パリ国立音楽院でアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルに学んだ彼は、その演奏が頻繁に真珠に例えられた演奏家の一人です。1878年、『メネストレル』誌に掲載された演奏評では、次のように絶賛されています。

彼が手中に収めた、目立たないようじゅうぶん控えめに扱う、響きを彩る技法をもって、フランシス・プランテは大いなるピアノのフランス楽派の真なる代表者であり、またそうあり続けるだろう。それは明確さ、優雅な気品、趣味の純粋さや魅力といった、純粋な特徴によってである*3。

*3 Th. Jouret, « La musique à Bruxelles[.] Troisième concert du Conservatoire. – F. Planté, J. Servais », Le Ménestrel, 44e année, no 16, 17 mars 1878, p. 126.
E. レオンデュフールによるフランシス・プランテの風刺画(1902)

E. レオンデュフールによるフランシス・プランテの風刺画(1902)
(BnF, Gallica, public domain)

 記者は、『真珠飾りのような(ペルレ)』走句」を奏でるプランテを、「真の知識を持つ音楽家、完全なヴィルトゥオーゾ、そして何にもまして、一人の魅力的な人物」*4と書いています。ヴィルトゥオーゾとは、もともとラテン語の「徳(virtus)」に由来する言葉で、「徳のある人」という意味です。この4年後、同じ雑誌に掲載された評でも、彼の演奏は「どんなに小さな音符さえ真珠やダイヤモンドになる」と称賛され、またもフランス楽派の頂点を極める音楽家として位置づけれます。

これほどのヴィルトゥオジティに、これ以上の趣味と魅力を結びつけることは不可能である。これこそが、ピアノのフランス楽派の高みにあるということなのであり、諸外国の楽派に対してパリに見出されるある種の趣味なのである*5。

*4 Ibid.
*5 Anonyme, « Concerts et soirées », Le Ménestrel, 48e année, no 27, 4 juin 1882, p. 215.

 第2・3回の記事でみたように、フランス語で真珠は、楽音だけでなく、精神的な気高さをもつ人物の比喩としても機能していたのでした。プランテは、音の面でも、人格の面でも「ペルレ」な存在として描かれており、それによってこそ、彼は「フランス的」な音楽家と認められていたのです。1870年代以降、とみに「フランス楽派」という表現が強調されるようになった背景には、1870年から翌年にかけて続いたプロイセンとの戦争が関係していることは想像に難くありません。フランスはこの普仏戦争で敗北し、第二帝政は終焉を迎えます。この出来事を境に、フランスの音楽界ではサン=サーンスらが中心となって国民音楽協会が創設されるなど、ナショナリズムの機運が高まっていきました。
「フランスらしいジュ・ペルレ」というイメージを文化戦略と捉えるなら、それは功を奏したといえるかもしれません。「ジュ・ペルレ」は、1890年代までに国際的な趣味の標準になっていたからです。1896年、ベルリンでピアノ製造者カール・ベヒシュタインの古希を祝うために、作家のアレクサンダー・モシュコフスキとその弟でピアニストのモーリツが、音楽付きの寸劇を制作しました。その名も『ピアノに向かうアントン・ノーテンクヴェッチャー』(「ノーテンクヴェッチャー」は「音符を押しつぶす人」の意)。この寸劇はゲーテの戯曲『ファウスト』第一部の「学生の場面」のパロディになっています。『ファウスト』といえば、悪魔が神様と賭けをして、ファウストという錬金術師を誘惑する物語ですが、この場面ではファウストになりすました悪魔のもとに、学生が訪ねてきます。モシュコフスキ兄弟のパロディでは、その学生に向かって悪魔があれこれ蘊蓄を垂れるところを、ピアノのレッスンに見立ててピアノが魔法のようにぐんぐん上達するという筋になっています。学生がウェーバー風の曲を弾くところで、悪魔メフィストフェレスはこう言います。

これは驚いた!
貴殿はすでにジュ・ペルレをものにしておられる
サン=サーンスやフランシス・プランテのように
ここで貴殿の演奏を止めては融通がきかぬというもの
新ロマン的なものは速やかに卒業されよ!
ただちにショパンの曲を弾いてみなされ*6

*6 « Me Hercule !/Ihr hqst bereits das jeu perlé, / Wie Saint-Saëns und Francis Planté ;/Euchaufzuhalten wär’ pedantish/ Schnell absolviert was Neuromantisch!/Spielt gleich ein Stück in Chopins Weise ! »(畑野小百合訳)。

 翻訳では分かりづらいですが、「プランテPlanté」と「ペルレperlé」で脚韻を踏んでいるのは、まことに象徴的です。彼らが当時住んでいたベルリンにおいても、ピアニストの理想が、「ピアノのフランス楽派」の真珠のような演奏だったことが分かります。

フランシス・プランテ(1928)

ランシス・プランテ(1928)
(BnF, Gallica, public domain)

 

95歳の長寿を全うしたプランテは、ショパンの演奏を聴いたレジェンドとして、90代でピアノ演奏録音が映像に記録された。

それでは、まとめに入りましょう。

おわりに

 真珠とピアノの意外な関係、いかがでしたでしょうか。この連載は19世紀末で一区切りとしますが、「ジュ・ペルレ」は20世紀中ごろまではジャーナリズムを中心に用いられていたと推測されます。「ジュ・ペルレ」を体現していると言われるマルグリット・ロン(1874 ~1966)の演奏は、確かにトリルは急速な走句も指のバネを効かせて一つ一つの音の輪郭がくっきりと際立っています。

 ちなみに、「マルグリット」は「真珠」という意味なので、しばしば真珠の首飾りを付けて写真映っているロン女史が、自身の演奏を真珠に喩えられることを悪くは思わなかったでしょう。しかし、ピアノ教育者たちがレッスンで真珠の比喩を積極的に用いていたかは疑問です。たとえば、パリ国立音楽院の教授たちが19世紀に書いたピアノ教育指南書やメソッドの類い、さらには教授たちが半期ごとに付けた生徒の進捗報告書などを調べても、真珠の比喩は見つけられません*7。ロン女史自身も、1959年に出版したメソッドでこのように書いています。

*7 19世紀のピアノ教則本で真珠の比喩が見出される稀有な例としては、日本で「ハノン」として知られている、シャルル=ルイ・アノンの教則本の序文です。

指は、唇がシラブルを発音するように音を発音しなければならない。全ての音符を「真珠のように弾く(perler)」というより、弁士や歌手のように「語るparler」ことに対する関心こそが、フランスのピアノ演奏技法の特徴の一つであり、この技法は語り口(élocution)における明晰さを直感的に求めるものである。潤いを損なうことなく巧みに分節された演奏は、役者にとっての良き朗読法と同じく、ピアニストにとって貴重な利点である*8。

*8 Marguerite Long, Le piano, Paris, Salabert, 1959, p. VI.
 教育者にとって、真珠の比喩は詩的なイメージにすぎず、もっと大切なのは18世紀に体系化された音楽修辞学の伝統だったことがよく分かります。「ジュ・ペルレ」は、その外面的な現れなので、レッスンではあまり実用的に機能しない言い回しだったのでしょう。
 筆者は幅広い世代のピアノ関係者と話す折に「ジュ・ペルレ」についていろいろと伺うことがあるのですが、1920~60年代にお生まれになった先生方は、体験的に「ジュ・ペルレ」という言葉を聞き知っていらっしゃることが多いという印象を受けます。しかし、そうした言い回しが次第に廃れていった背景には、いろいろな事情があるようです。20世紀、国際ピアノ・コンクールが活発になるにつれて、演奏の評価がそのまま国家の威信を代表するようになりました。フランスの「エレガント」で「繊細」、「知的」で「諧謔的」な趣味の規範は、ロシア勢の力強い演奏に圧倒されて行きます。とうぜん、身体の使い方のスタンダードも変わっていきます。競争としての演奏文化が活発化するにつれ、サロンのような親密な空間で培われたフランス的な演奏流儀は、大ホールで大人数の聴衆を前にする機会が増えるにつれ、次第に求められなくなっていったのではないでしょうか。
 動画として残されたサン=サーンスの演奏スタイル(彼の演奏もまた、折々に真珠に喩えられました)には、フランスの古い演奏様式の面影を見て取ることができます。この《可愛いワルツ》の楽譜で「ルバート」と記されたセクション以外では、彼の腕はほとんど上下に動かず、胴体は終止殆ど微動だにしません。こうした演奏様式は、時代とともに少しずつ変容して行きました。

 もう一点、将来調べてみたいと思っている主題は、演奏を真珠に喩える習慣が20世紀にどのように変化したか、という点です。というのも、20世紀は真珠そのものの価値が大きく変容した時代だからです。このあたりの目からうろこの顛末は、山田篤美著『真珠の世界史』(中公新書、2013)に詳しいので、ご興味のある方は是非読まれてみて下さい。以下はこの書籍の第8章に書かれています。19世紀の末、日本ではミキモトパールの創始者として知られる御木本幸吉が半円真珠の養殖技術を開発し、次いで見瀬辰平が真円真珠の養殖に成功します。自然の奇跡だった宝石が人間の管理下で作られたことは、真珠神話を大きく揺るがし、フランスを含むヨーロッパの真珠業界大打撃を与えました。サン=サーンスが亡くなる1921年にはロンドンで「偽真珠事件」が勃発、養殖真珠をめぐる騒動が真珠市場に拡がっていきました。世界恐慌が始まる1929年、養殖真珠の普及に肩入れしたフランスの銀行が天然真珠ディーラーに信用供与を拒んだため、天然真珠の取引が何年も停止したと言います。
 文化的に見ると、この出来事は音楽界でも真珠神話の解体をもたらしたのではないか、と予想されます。安定的に供給される質の高い真珠が一般化すれば、当然、真珠の比喩のもつ文化的・社会的意義も変質するはずです。このあたりの変化を辿る研究は、いずれしてみたいと思っています。
 皆さんも、身近に真珠のアクセサリーなどをお持ちかと思いますが、そんなときは少し真珠という不思議な「宝石」とピアノの関係に思いを馳せていただければと思います。最後まで読んで下さり、有り難うございました。

2020/10/11
(完)

上田泰史

金沢市出身。
2016年に東京藝術大学大学院音楽研究科文化学専攻にて、19世紀のパリ音楽院のピアノ教育に関する研究で博士号を取得。
同年にパリ=ソルボンヌ大学でもパリ音楽院教授ジョゼフ・ヅィメルマンに関する論文で博士号(音楽学)を審査員満場一致で取得。在学中、日本学術振興会より育志賞を受ける。
著書に
『「チェルニー30番」の秘密――練習曲は進化する』(春秋社,2016)
『パリのサロンと音楽家たち――19世紀の社交界への誘い』(カワイ出版, 2017)。
2018年4月より日本学術振興会特別研究員(SPD)を務める。
東京藝術大学、国立音楽大学、大妻女子大学ほか非常勤講師。

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