「コンクール」という日本語はどこから来たのか?
神保夏子(音楽学)
コンクール、コンテスト、コンペティション。いずれも参加者が賞や順位をめぐって特定の分野で競い合うイベントを指す外来語だ。このうち、クラシック音楽の文脈で最もよく使われているのが「コンクール」という言葉ではないだろうか。
きっかけは日本音楽コンクール
コンクール(concours)」とは競技会や入試などの選抜試験を指すフランス語で、語源は「群がり集まること」・「ぶつかること」などを意味するラテン語のconcursusに遡る。今日ではあらゆる分野において用いられる言葉だが、日本でこの語が普及するきっかけとなったのは、実は1932年に創設された日本音楽コンクールだったという。
1981年に現在の名称に変更されるまでのこのコンクールの正式名称は「音楽コンクール」。あまりにもシンプルすぎて普通名詞のようだが、れっきとした固有名詞である。コンクールの氾濫著しい今日においては実感が持ちにくいが、「音コン」設立以前の日本では同種のイベントが少なく、差別化のための余計な言葉を付け加える必要がなかったのだ。
「音楽コンクール」創設者の一人である評論家の増澤健美(1900-1981)は、この命名の経緯について以下のように回想している。
これ〔=コンクールという名称〕は僕が話として出した案なのだ。いろいろ考えてみるけれども、何しろこういう仕事が今まで無かつたものだから適当な名称がないのだな。
このコンクールのある前にこういう形式のものを日本でやつていたのは武井守成氏の主催したマンドリンのコンコルソ。「コンコルソ」はイタリア語だ。それでこつちはフランス語で行つて「コンクール」にしようということになつた。
ところがコンクールという言葉が俄然流行して、第一回〔音楽〕コンクールをやつた翌年にはチンドン屋のコンクール――チンドン屋自身はコンクールと言わなかつたけれども、新聞社がほかに適当な名前がなかつたせいかどうか、「チンドン屋コンクール」という記事を出した。それ以来コンクールという名前が頻繁に使われだして、もう三、四年後ぐらいには堂々日本語になつちやつた。
*1: 増澤健美、堀内敬三、野村光一「音楽コンクール回顧談~コンクール創設二十周年を記念して~」音楽之友9(10)1951:pp.92-3。
要するに「コンクール」という名称は、先行する「コンコルソ」との差別化から選ばれたというわけだ。先に出来たマンドリンのコンクールの名称が仮に「コンコルソ」ではなく「コンクール」だったなら、あるいは日本音コンの方が「コンコルソ」を名乗り、そちらが日本語として定着していた可能性もあるのだろうか。
▲第8回日本音楽コンクールのプログラム(神奈川県立図書館「野村光一文庫」所蔵)。欧文での名称が英語・フランス語交じりの「MUSIC CONCOURS」となっているのはご愛敬だ。
コンクールの誕生が音楽界にもたらしたもの
しかし、音コン以前の日本では本当にコンクールという言葉が使われていなかったのか。
ためしにいくつかの国内新聞記事データベース*2で「コンクール」の語をキーワード検索してみると、音コンの創設された1932年以前も一定量の記事がヒットする。ただし記事現物をよく見てみると、実際には「コンクール」という言葉自体はほとんど使われておらず、同様の催しでも「競研会」「競進会」「競演会」「競技大会」などの漢語化された表現が用いられている場合が多いことがわかる(「コンクール」でヒットしたのは、おそらくデータベース作成の段階で行われた現代語によるラベリングの結果だろう)。
1932年以降は「コンクール」の語でのヒット件数自体も明らかに増えるが、それだけでなく、この外来語そのものが記事の見出しや本文中で普通に使われるようになる様子が見て取れる。つまり、音コンが導入した「コンクール」という語は、それまでの日本に存在した、競技的な催しを指すばらばらの言葉を、ある程度一つに束ねる役割を果たしたということになる。それだけこのコンクールの持つインパクトが強かったということだろう。*2
*2: 聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞)、毎索(毎日新聞)、ヨミダス歴史館(読売新聞)。
「卓越せる実力を有する音楽家の推薦」と「楽壇のレベル向上」を目的として創設された日本音楽コンクールは、日本における西洋音楽の受容と実践の歴史においてきわめて重要な位置を占める存在である。
音コン設立以前の日本の西洋音楽界は、官立の東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の出身者によって実質的に牛耳られている状況だった。つまり、私立の音楽学校の出身者や個人教授によって音楽を学んだ者は、いかに能力があっても当時の日本ではなかなか正当に評価される場がなかったのだ。
音コンの構想はこうした官学出身者一辺倒の音楽界の状況に対するある種の「強烈な在野精神」*3から生まれたものだという。
「一般のレベルの高まっている現在の楽壇にあっては、何々音楽学校卒業という肩書の所有者全部を、そのまま直ちに音楽家とみなすことは出来なくなって来ている」。
増澤健美は第1回コンクールのプログラムに掲載された文章でこう述べている。
「ここにおいて、真に卓越せる実力を有する音楽家を推薦し、真の音楽家を一般の人々に認識せしむる機関が是非とも必要なのである」*4。
こうした成り立ちのコンクールであるから、東京音楽学校の側も当初は大いに警戒心を抱き、「官学」出身者は逆になかなかコンクールには応募できない状況だった。
このタブーを破ったのが、東京音楽学校研究科在学中の1934年に第3回日本音楽コンクール声楽部門で第1位入賞を果たしたソプラノの長門美保(1911-1994)である。
コンクール主催者から「上野出〔東京音楽学校出身〕だなんていっても駄目ですね。コンクールで落ちてますよ」と挑発され「カチンときた」のが参加のきっかけ。「そんな事ないわ、入賞するわよ」と啖呵を切り、落ちたら出身校の名誉にかかわるという学校側の反対を押しのけて、見事栄冠を獲得した*5。
*3: 音楽コンクール30年編纂事務局編『音楽コンクール三十年』毎日新聞社・日本放送協会、1962年、12頁。
*4: 同前、12頁。
*5: 同前、112~113頁。
長門美保の歌唱
パリ音楽院の「コンクール」
こうした日本で最初の本格的な音楽コンクールの設立者として真っ先に名前が挙がるのが先述した増澤健美だが、音楽評論家の野村光一によれば、その最初の企画を立てたのは音楽教育家の小松耕輔(1884-1966)だったという。
彼は第一次大戦直後にフランスへ留学したのだが、そのとき同地で、戦争のために鈍っている音楽活動振興のため音楽コンクールが行われ、それが新進の音楽家たちを奮起させていることを知って大感激した。そこで、これと同趣向のものを母国日本でもやれば、戦後萎縮しているわが楽界の復興にも役立つだろうと考え、帰国後、時事新報紙上に音楽記事を寄稿していた増沢健美にそのあらましを伝えたのである*6。
*6: 野村光一「一流ピアニストへの条件――世界の主要ピアノ・コンクール その特色と芸術性」『ショパン』1984年1月号、33頁。
この説が本当だとすれば、「コンクール」という名称が、ドイツ語でも英語でもなく、まさしくフランス語から採られたという事実にも納得がいく。
第一次世界大戦以降、日本の音楽界では、フランス人音楽家の来日や日本人音楽家の渡仏の増加もあいまって、一種のフランス・ブームが巻き起こっていた。そんなこともあってだろう。「外国の音楽コンクールといえばパリのコンセルヴァトアールの音楽コンクールのことを考えた時代があった」*7と音楽評論家の牧定忠(1907-2001)は後にふりかえる。
*7:『音楽コンクール三十年』、135頁。
「コンセルヴァトアールの音楽コンクール」とは、国立パリ音楽院の学年末のconcours、すなわち卒業試験のこと。フランス語のconcoursは日本語でいうところの狭義の「コンクール」に限らず、入試や卒試などの学校の試験をも含む語なのである。
1932年7月、このパリ音楽院の「コンクール」で日本人演奏家として初めて「1等賞」を得たのがピアニストの原智恵子(1914-2001)、のちに名チェリストのガスパール・カサドの夫人としても名を知られることになる人物だ。1928年に13歳で渡仏、1930年にパリ音楽院に入学したこの「天才少女」の快挙は、当時の日本の新聞でも大きく取り上げられた。
コンセル・バトアール〔ママ〕は世界的権威ある楽院で、智恵子さんが去る昭和五年秋十六歳の少女の身を以て、よくその難関たる入学試験にパスした事は当時楽壇の驚異として伝へられた程で今又この少女が難関中の難関たるコンクールに首席を得た事はパリ楽壇に大きなセンセーシヨンをまき起こしてゐる*8。
*8:「パリの樂壇に譽れの大和なでしこ 音樂コンクール《首席一等》原智恵子嬢」朝日新聞、1932年7月1日。
▲朝日新聞の記事より(左:1932年7月1日、右:1937年7月5日)
その5年後、今日でもピアノ教育者としての功績が広く知られる草間(安川)加壽子が、15歳の若さで同じパリ音楽院のコンクールの第一等賞を獲得。やはり「天才」として新聞に絶賛されている。
このパリ音楽院の「コンクール」は基本的にはそこに籍を置く全ての学生が通過すべき関門で、卒業の可否を左右する「1等賞(プルミエ・プリ)」や「2等賞(ドゥージエム・プリ)」といった賞は毎回それぞれ複数名に与えられる。
「1等賞」はもちろん大きな名誉だが、今日の有名な国際音楽コンクールのそれに比べればはるかにローカルな次元のものである。
しかしながら、ヨーロッパへの渡航自体が特権的なものであった時代の日本にあって、このパリの「コンクール」での日本人の快挙は、今日では想像できないほどに目覚ましいものとして映ったに違いない。
日本から世界へ
とはいえ、現代の日本において、「外国の音楽コンクール」といって真っ先に思い浮かぶのは、ショパンやチャイコフスキーのような国際音楽コンクールだろう。
今日、近代的な国際音楽コンクールの端緒と見なされているのは、1890年にロシアのサンクトペテルブルクで始まったアントン・ルビンシテイン・コンクール(1910年まで)。現在まで続いているものに限れば、最も歴史が古いのは1927年創設のショパン・コンクールで、ブダペスト(1933年)、ヴィエニャフスキ(1935年)、イザイ(現・エリザベート王妃、1937年)、ジュネーヴ(1939年)、ロン=ティボー(1943年)などの諸コンクールがあとに続く。
こうした国際音楽コンクールと日本人との関わりは意外に比較的早く、国内の新聞報道で確認できる限りでは、遅くとも1930年代初頭に日本からの出場者が認められる。この最初期の出場者の中には、当時天才少女として騒がれたピアニストの井上園子(1915-1986)がおり、1933年に留学先ウィーンの国際音楽コンクールでの「優等賞」(ディプロマ)受賞が報じられている*9。
*9:「井上嬢と二宮氏 コンクールの優等賞獲得 わが楽人2度目の誉れ」朝日新聞、1933年6月23日。
井上園子:チャイコフスキー《四季》より〈トロイカ〉
一方、国際音楽コンクールは第二次世界大戦後に世界的に激増し、音楽家のキャリア形成の基本ルートとして急速に一般化し始める。日本人が国際音楽コンクールの舞台でより本格的に頭角を現し始めるのもこの戦後の時期である。その先駆けとなったのが、ピアニストの田中希代子(1932~1996)であった。
幼少期から音楽家の両親のもとで音楽の英才教育を受けて育った田中は、1949年に10代で日本音楽コンクール第2位特賞を獲得し、戦後初のフランス政府給費留学生の一人として1950年に渡仏。パリ音楽院を1年で修了後、ジュネーヴ(1952年、女性部門第1位空席の第2位)、ロン=ティボー(1953年、第4位)、ショパン(1955年、第10位)という3つの重要なコンクールで、日本人としては前代未聞の入賞を続けざまに成し遂げた。
田中希代子:ショパン《練習曲》op.25-8 変ニ長調
音コンの過去の入賞者でもある田中の国際コンクール連続入賞は、音コン関係者の間でも海外のコンクールへの関心を高めることとなった。これを受けて1956年、音コン創設25周年の記念事業の一環として、「特別表彰」と呼ばれる制度が新設される。音コンの過去の入賞者の中からさらに選抜された者に渡航費用60万円を与え、海外の有名コンクールに「派遣」するというシステムだ。
この制度を利用できたのはもちろんごく一握りの人に過ぎないが、世界のコンクールがかくして日本のコンクールと直接接続されることで、日本の若い音楽家たちにとっての現実的な目標として可視化されていったことの意義は重要である。
その後、1960年代に入るとショパンやチャイコフスキー、エリザベートなどの大コンクールで相次いで日本からの入賞者が出たことから、こうしたコンクールは日本国内での一般的認知度を著しく高め、音楽に携わる者の強烈なあこがれの対象となってゆく。
かつて「海外の有名コンクールに集団で押しかけて客席を陣取る日本人」の姿が物議をかもした時代があったが、彼らは上記のような技術向上とあこがれの蓄積が、高度成長期以降の経済発展や海外渡航の容易化という外的条件と結びついて必然的に発生したものなのである。
ピアノを専門的に学ぶ多くの若者にとって、ショパン・コンクールなどは今でも一つの象徴的な存在ではあるが、学びの過程で数知れぬコンクールに出場することは、今日ではあまりにも当たり前になってしまった。幼児からシニアまで、アマチュアからプロまで、あらゆるレヴェルでコンクールが増え、コンクール入賞者の数もそれに応じて激増した今、コンクールというものに期待される機能はかつてより多様かつ複雑になりつつある。もちろん、そこには才能ある音楽家たちの応援と豊かな音楽文化の醸成という共通の目標がひそんではいるのだが、歴史を振り返ってみれば、「思えば遠く来たもんだ」と口ずさまずにはいられない。