作曲家の演奏美学
内藤 晃
第1回 フランツ・シューベルト
レオポルト・フォン・ゾンライトナー
(オットー・エーリヒ・ドイッチュ編 石井不二雄訳
『シューベルト 友人たちの回想』白水社より)
レオポルト・フォン・ゾンライトナー(1797-1873)は、シューベルト(1797-1828)と同い年の音楽愛好家で法律家。シューベルトと親しくなり、彼の音楽を楽しむ内輪の集い「シューベルティアーデ」の会場として実家を提供していました。シューベルトが宮廷歌手フォーグルと新作歌曲を奏でる現場に数多く居合わせた人物で、《魔王》の自費出版の際も費用の一部を負担しています。
これは、ゾンライトナーが、シューベルトを回想する文章のなかで、その自作歌曲の演奏ぶりを描写している部分。本人の歌曲のリハーサルを百回以上聞いている人物だけに非常に強い説得力があります。この文章が書かれた1857年は、シューベルトが亡くなって約30年後。シューマンやリストらの功績で、生前無名だったシューベルトの歌曲も徐々に知名度を高めつつありました。
この文章でまず語られているのは、シューベルトの歌曲が他人によって大仰に演奏されることに対する違和感です。ゾンライトナーによると、歌曲における歌手の役割は、「感情の持ち主に扮する」のではなく、「他人の体験や感覚を語る」のだとのこと。詩の中の人物に没入して感情移入するのではなく、語り手として詩の世界へといざなう客観的な視点が必要だということです。本人の節度ある弾きぶりも描写されていますが、歌手が「語り手に徹する」というのはおそらく彼の歌曲観でした。そして、このようなポリシーは、歌曲のみならず彼の音楽に一貫しているはずであり、「演劇的」に陥らない慎ましい語り口で奏でたいものです。
彼は非常に誠実で、率直で、策略を弄せず、親切で、感謝の心を持ち、控え目で、人付き合いがよく、嬉しいことはどんどん話し、悲しいことは黙っていた。
(中略)
範囲の広くなったシューベルトの友人たちの中には大勢のすぐれた詩人や芸術家が数えられるが、特に画家も加わっており、彼らはみな彼の作品の中に語り出している精神に感動していた。これら友人たちのグループの中に何時間も留まっていることが、シューベルトにとっては最大の喜びとなった。
(中略)
友人たちの喝采が彼にはいつでも最高に嬉しいものであった。しかし大衆の喝采は彼を感激させず、彼はそれを求めもしなかった。それ以上に金銭は作曲の目的ではなかった。
ヨーゼフ・フォン・シュパウン(前掲書より)
ヨーゼフ・フォン・シュパウン(1788-1865)
シュパウンの回想記にも、シューベルトの音楽の本質を衝く重要な証言があります。
シューベルトは、コンヴィクト(寄宿制神学校)で聖歌隊と学生オーケストラに所属し、シュパウンをはじめ多くの良き仲間に囲まれた学生時代を送りました。シューベルトは、そのシャイで誠実な人柄も含め、周りから愛され、この友人の輪は、新しい仲間を引き込みながら、シューベルトを支援し彼の音楽を楽しむ集い(シューベルティアーデ)に発展しました。シューベルトも、仲間の友情に甘え、居候を繰り返しながらボヘミアン生活を謳歌し、音楽に没頭していました。シュパウンは、シューベルトが友人の喝采を喜ぶ一方で、大衆の喝采を求めなかったと言っていますが、そもそもシューベルトの音楽は、たくさんの聴衆を想定しておらず、ありのままを受け入れてくる友人たちのみに発表する、プライベートで無防備なものだったわけです。そんな意味でも、ゾンライトナーの言う「演劇的」な身ぶりとは無縁で、人柄がそのまま現れ出たような、慎ましさやはにかみを湛えています。
友人シュヴィントが描いた「シューベルティアーデ」の光景。ピアノを弾くシューベルトの傍らで歌っているのが宮廷歌手のフォーグルである。
シューベルトの名演奏
筆者の独断と偏見で選びました。
歌曲では、いかに詩の世界に聴き手を引き込み、想像力を喚起させるか、ピアニストが鍵を握ります。作曲家ベンジャミン・ブリテンによる歌曲伴奏(歌はピーター・ピアーズ)は、実に文学的で、とりわけ筆者が共感してやまないものです。
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団とレオポルト・ウラッハ(クラリネット)ら往年のウィーンの名手たちによる八重奏曲は、これぞシューベルトという親密な空気感に満ちています。
フィッシャー=ディースカウらの共演者で歌曲伴奏のスペシャリスト、ジェラルド・ムーアが、引退公演のアンコールで奏でた「最初で最後のピアノソロ」であるAn die Musik(ムーアによるピアノ版)は、淡々とした語り口から万感がこぼれ落ち、あまりにもあたたかく感動的な1分間です。