クラシック/ジャズ お互いの影響はどのくらい?
クラシック→ジャズ 一見まったく違うふたつの音楽。
普通、音楽家はどちらかが専門。聴き手もどちらかがメインというケースが多いだろうが、両方好きだという人もいるだろう。音楽家側からも、ジャンルの垣根を超えたコラボレーションをしたり、どちらの要素もうまく取り入れて自分のスタイルを作る人が増えてきた印象がある。
クラシックとジャズの違いは何だろう?
今日は、お互いの影響関係について整理をしてみたい。そうすることによって「違い」が浮き彫りになるかもしれない。普通に考えれば、歴史の順番としてクラシック音楽が先にあり、ジャズが後。「クラシック音楽」と大雑把に言ったが、もう少し丁寧に言えば(クラシックという言葉の広義での「古典」ということでなく、ジャンルとしての)「西洋古典音楽」のことである。
中世、ルネッサンス、バロック、古典派、ロマン派、印象派のように推移してきた、ヨーロッパの一連の音楽の連なりを指している。クラシックは20世紀に入っていわゆる「現代音楽」へと続いていくのだから、この段階に至っては1900年頃に誕生したと言われるジャズと時代的に重なることになる。
そうは言っても「クラシック→ジャズ」の順番は決定的であり、それゆえにジャズがクラシックの影響を受けるというのは自然な流れだった。ニューオーリンズで生まれ育ったジャズが広まり都会化し、やがて自己表現の音楽として、表現を拡張しながら20世紀を駆け抜けて行く時、すでに理論化され体系化されたクラシックの音楽語法は大いに参照されることになった。
ジャズの「帝王」と呼ばれたマイルス・デイヴィスはジュリアード音楽院で学んだ時期がある。ピアニストのビル・エヴァンスは、幼少からクラシックピアノに親しんだ上にサウスイースタン・ルイジアナ大学、マネス音楽大学の2つの教育機関でクラシックを専門的に学んだ。多くのジャズ・ミュージシャンが、一時期であれクラシックを学んでいる。
自分の音楽を最大限探究し、かつ学んできたものを生かそうとすれば、クラシックの素養が音楽に入り込んでくることは全く不思議でない。
印象派の音楽
クラシックがジャズに与えた影響というとき、誰もがまず思い浮かべるのは印象派の音楽ではないだろうか?印象派の作曲家の2大巨頭はドビュッシーとラヴェルだ。二人とも素晴らしいピアノ音楽で有名。彼らの音楽の特色は、色彩豊かな音響の新世界を発見したことだ。
本来「解決」されるべき不協和音としてのテンションを「解決」されなくても良い、固有の「サウンド」として扱う非機能的な和音というコンセプトだ。
例えば、ドビュッシーの「沈める寺」の4度を基調としたヴォイシング。和音の積み方という意味ではモードジャズのバッキングなどで多用されるようになった手法。ここにその萌芽がある。またこういう幻想的な雰囲気は、ジャズピアノの特にソロスタイルで重用されることも多い。
セブンスの和音は本来トニックに解決するものだ。印象派はその制約からも解放された。ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」に典型的に現れる(下記動画の2:25のあたり)。
他にもドビュッシーの「喜びの島」のホールトーンスケールや、ラヴェルの「スカルボ」の密集した形で和音を形成するクラスターなども確実に影響を与えただろう。
印象派以外にも…
ジャズが都会化されると、より大きな編成で演奏されるようになる。デューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラーなどのビッグ・バンドは、より伝統的なコンボ編成の発展形として捉えるのが正解だと思う。
しかし、ある種の大編成のオーケストラ、例えばポール・ホワイトマンだったり、トニー・ベネット、ダイアナ・クラールのようなスター歌手のオーケストラ編成のアレンジにおいては(ジョニー・マンデルやクラウス・オガーマンのようなアレンジャーの仕事)、ワーグナー的だったりラヴェル的なクラシックのオーケストラ書法が参照されている。
バロック音楽の影響も考えられるだろう。パーカー的なビバップのアドリブラインのデザイン美は、バッハの無窮動のメロディーメイキングに通じるものがある。
アンサンブル論としては、通奏低音の習慣がコードネームに基づくジャズのアドリブ理論と接近している。また、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、バルトークのようなリズム表現が先鋭化した音楽もジャズに影響を与えたことは想像に難くない。
筆者が「クラシックがジャズに与えた影響」について考えるとき、より精神的な部分に触れたくなる。それは「芸術家=アーティスト」としての自意識の発生と、そういうあり方を社会が徐々に受け入れていったことである。
ベートーヴェンの存在によって、自由な芸術家のあり方が開かれたこととの相似性。
ジャズにおいてそれがいつからだったか、誰からだったかは簡単には言えないが、パーカー、ガレスピー、マイルスのようなビバップの音楽家が現れ、それまでのエンターテインメント性最重視のくびきから解き放たれ、自己表現、自己実現を価値の真ん中に置いた時だろうと思われる(もちろん、それ以前の音楽家も十分に「芸術家」だし、マイルスの音楽も十分に「エンターテインメント」なのだが)。
個々のミュージシャンの例
それでは個々のジャズ・ミュージシャンがクラシック音楽とどのように向き合っているかを見てみよう。オイゲン・キケロ、ジャック・ルーシェ、ジョン・ルイス、ヨーロピアン・ジャズ・トリオのような例をぜひ聴いてみよう。基本的なコンセプトは彼らのジャズ語法でクラシックの名曲をアレンジ、解釈、プレイするもの。そこにはクラシックへの愛情とリスペクトがあり、現代の聴衆の教養や知的欲求を刺激する。
https://www.youtube.com/watch?v=9zO_v3HP7Wc
近年には、よりスリリングな、場合によっては自身のジャズ・アイデンティティのギリギリのところでせめぎ合うような対峙に挑戦している人たちがいる。
ティグラン・ハマシアンのパフォーマンスを見て欲しい。
アルメニア正教会の古い聖歌とピアノのコラボレーションである。
これは「クラシックの名曲をジャズアレンジで」というフォーマット(決してディスっているわけではない)を完全に超えた、かなり深いレベルでのコラボレーションである。
もう一例、現代ジャズを代表するブラッド・メルドーによる「アフター・バッハ」のような作品もある。こちらはそのライブ動画。メルドーはそもそも、ジャンル横断的な語法やコラボ企画を多数生み出してきた。そんなメルドーのピアノ音楽の一つの究極的な形ともいえるし、「ジャズ/クラシック」の二項対立を完璧に総合する到達点ともいえる。
ジャズ→クラシック
最初に述べたように、20世紀以降はクラシックとジャズは同時にこの世界に存在していた訳なので、クラシックの作曲家にとってもジャズは非常に興味深いインスピレーションの源泉になった。ドビュッシーの「ゴリウォーグのケークウォーク」は1908年の作品。ケークウォークは19世紀末にアメリカで流行したダンスで、同名のピアノ音楽のスタイルがあり明らかにラグタイムと強い関連性がある。
そしてケークウォークはヨーロッパにも伝播しておりドビュッシーも知るところとなった。ケークウォークはジャズ以前のスタイルであり、これを持ってクラシック音楽に対する「ジャズの影響」とはまだ言えないところだが、アメリカ文化を作曲に取り入れる姿勢は先駈け的である。
例えばドヴォルザークやフォスターなどが、19世紀アメリカのフォーク・ミュージックを作品に取り入れる姿勢をはっきり見せている。
このパターンを最も典型的に打ち出し成功したのはガーシュインである。オペラ「ポギーとベス」の中の「サマータイム」のブルースの響きは特に有名だ。そして金字塔はなんと言っても「ラプソディー・イン・ブルー」ではないだろうか?初期のジャズの素朴だったり荒々しかったりする管楽器の表現をオーケストラの中に取り込む。そして2ビートのリズムを借り物ではない骨格として音楽を構成している。
他には次のような作品にジャズから受けた影響が見られる。ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」、ストラヴィンスキーの「ラグタイム」、ラヴェルの「ボレロ」、「ヴァイオリン・ソナタ第2楽章」(「ブルース」のタイトル)、バーンスタインの「ウェスト・サイド・ストーリー」など。ピアソラの音楽にも独特の形でジャズの痕跡が感じられる。例えば「オブリヴィオン」や「カリエンテ」など。
カプースチン
上に述べた影響というものとは違う次元で(さらに本質的な次元で)ジャズを自分の語法の中心に据えた音楽家にニコライ・カプースチンがいる。カプースチンのスタイルは、全てが楽譜に音符化されているという意味で、文化的にクラシック音楽であることは間違いない。
しかし音だけ聞くと、これを「ジャズ」と感じる人は多いかもしれない。一方で、即興演奏ではないのだから「ジャズ」ではないという人もいる。
答えばどちら?
こんなケースを想像してみたい。普通の聞き手が例えば上にあげたメルドーのバッハの演奏を聴く。
そしてカプースチンと比べてみる。そしてどちらがクラシックでどちらがジャズかと問うてみる。そしてどちらが即興でどちらが楽譜なのか問うてみる。答えはきっと一つではない。この不安定性、意見が別れそうなこと自体が面白い。
その人の音楽遍歴や価値観によって「私はこう思う、なぜなら」という議論が始まるかもしれない。カプースチンの音楽はジャズなのだろうか。筆者はこの問いに「これはジャズである」とか「ジャズではない」という形で答えたくない。カプースチンの音楽を聴くと(それが本人の演奏であれっても、他のピアニストによる演奏=解釈であっても)「ジャズとは/クラシックとは何なのか」という問いが始まり、その渦が巻き始める。
この渦巻そのものを見つめて、常に問い続けよう。そういう「問いの発生装置」としてのカプースチン。これで良いのではないだろうか。次の稿ではもう一歩進んで、「ジャズ→クラシック→ジャズ」という「再影響」のパターンを取り上げてみたい。